音機
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白い空間。
周囲はただ、白。延々と、白。
私は白いだけの空間にいる。私は確かに存在した。
その中心で、中心で? 中心で。父が指揮棒を振っている。私はただただそれを見ていた。父は私に気づいていないように見えた。一心不乱に右手に握った長い指揮棒を振っている。不思議な形の指揮棒。それはなにか、植物の葉をモチーフにしているような。或いは、ト音記号を長く伸ばしたような。そんな形。異様な形。
父の前には誰もいない。父は空間に向かっていた。
少し呆けながら父を見ていると、やがて父の姿はゆらゆらと霞み、そして消えた。異様な形の棒だけが残った。棒はまだ空に浮いて、必死に演奏の指揮を執っていた。
棒に合わせて聞こえてきたのは、どこか懐かしい音だった。それは遠い昔のような。つい最近聞いたばかりのような。不思議な感覚。脳に響く音楽。全身の細胞がとろけていくのを感じる。私は確かにその音を、音楽を、聞いたことがあるはずだった。
ひどく心地よい音が私を包む。私は眼を閉じた。眠る。
聞き慣れた優しい旋律が、少女を深い夢の中から引き戻した。軽く、柔らかく。春風のように流れているその音が、まだ寝ぼけ眼のままでいる少女の耳をつつく。少し唸ってようやく気だるそうに起き上がった少女が窓を開けると、すうと軽く囁きながら入ってきた朝の風に逆らうように、音は遥かに広がる外の世界へと飛び出していった。
空気のような軽さの中に大地のような重さを、母の優しさの中に父の力強さを抱いているようなその音楽は、ありふれた形の二階の窓から薄い虹色の外界に棲む住人へと、今日という日の始まりを告げた。外界では最も知られているその旋律に合わせ、鳥や風が美しい歌声を披露している。
少女はふぁ、とひとつあくびをして、糸を紡ぐようにゆるやかに流れている音の出所を辿る。階段を降り、導かれるようにリビングへと辿り着いた。慎重に床の板目を数える。北側に七枚、西側に八枚の位置。踏むと少しだけ軋む木製の床を外すと、地下室へと続く暗い階段が現れた。少女はためらい無く足を進める。少女は音に導かれ、地下室へ向かった。
そこは少女がまったく知らない場所だった。
少女は足を進める。
――暗く長い階段の、さらに奥。
一応は家の中であるはずなのに、地下へと伸びる階段の途中には蛍が絶えず飛び回っている。あえて駆除しないままでいる蛍たち。ちらちらと自由に飛び回る小さな命の灯火を、自然の灯かりとして利用しながら地下室を目指す。階段は簡単な木材を継ぎ接ぎしながら無理やり組んだ簡単なものだった。それは相当不精な日曜大工が、つい気まぐれに即興で作ったものにきっと違いなかった。さほど重いわけではないはずの少女の体でも、一歩ごとに脆そうな板を軋ませた。足元から流れてくる音と重なるたび、少し不快な不協和音の悲鳴を上げた。
それでも作曲家なのか。――それとも、作曲家だからか。心の中で軽く悪態をつきながら、少女は慎重に腐りかけの階段を下った。
一階からおよそ三〇米ほど降りてきたころだろうか。少女の目の前には人一人がやっと通れるほどの、やはりひどく薄い木でできた小さな扉があった。その扉の奥から聞こえてきている音楽は、狭い地下の廊下で反響を重ね、しかしけして耳障りでない重奏を奏でていた。
少女が小さな扉を開く。淡く緑に輝いていた蛍たちが一斉に逃げ出していった。ドアの隙間にたまった埃と千切れた羽と絶えた骸と、その他諸々が無秩序に散乱する。
蛍たちに驚かせてしまったことを小さく詫びると、途端に真っ暗になってしまった地下室の明かりを手探りで点ける。何度か点灯した後に点いた古い蛍光灯の光は、慣れるまではむしろ眩しく感じるほどに少女の目を刺激した。
やがて目が慣れると、少女の空色の瞳には、すっかり寂れた地下室が映った。少女の倍ほどもある背丈の本棚が壁一面に幾つもそびえ立ち、無駄な圧迫感と存在感を誇る。やはりあまりいい素材ではないと思われる床の上には、やたらに分厚い本が至る所に散乱している。隅に寄せられてしまった机の上には、うず高く積みあがった本の塔だけでなく、潤滑油の入った缶、小さく細かい部品がぎっしり詰められたジャム瓶、無駄に重さを追求させられた工具箱といった物々が、どうにも乱雑に投げ出されている。その様子はまるで強盗が入った後のようだった。
そんな律の無い部屋のちょうど真ん中に、大きく無機質で、それでいてひどく粗暴に見える鉄の塊。
それはこの部屋の『主』だった。そこにはひとつの『主』がいた。
――初めて見たときは、とても信じられなかった。
音楽は、『主』から聞こえていた。
『主』は機械だった。頭も腕も胴も脚もあるが、それらを構成する各部からは黒光りする鉄の骨や、油が循環している油管が剥き出しになっていた。人間の顔に相当しそうな部位を見ても、そこには口も鼻も無い。目と言えなくもなさそうな位置にある硝子盤の奥では、赤と青と緑の小さな光が、規則的かつ機械的なリズムで点灯を続けていた。
音楽は、『主』から聞こえていた。
もっと正確に言うと、それは『主』の左胸である。人間なら心臓がありそうな部分から聞こえていた。やはり剥き出しになっているその心臓は、おそらく血液を押し出す拍動を数えることはない。歯車と鉄琴をいくつも重ねたようなブラックボックスが、優しい音色を体の外へ外へと押し出しているようだった。
その『主』はぴくりともしなかった。
動いているのはその心臓だけで、太くたくましい腕も脚も、自身にまとわりつく蝿や蛍を払うことすらしない。どっしりと安定した脚部で床を踏みしめ、ただ孤独に存在していた。たった一人で暗く寒々しい地下室に佇んでいた。眠っているようですらあった。それは何年もの長い間である。彼にとって長い間であったかは知れない。誰にも干渉されることなく、静かに眠り続けているようであった。それほど静かに、また安らかに、その鉄でできた人形は存在していた。
――時計と油で動いているのだと教えてくれた。
少女が『主』に近づく。
踏み場も無い部屋の中。足場を乱暴に蹴り作りながら、少女が『主』に近づいていく。そういえば着たままだったパジャマがだいぶ大きいせいなのか、もしくは遥かに巨大な鉄の塊と並んでしまったせいなのか。少女のもともと小柄な体は、なぜだかさらに小さく見えた。そのうえで、少女は自分と比べておよそ倍くらいの身の丈はありそうな『主』に触れた。
ところどころが錆付いて、長い年月を感じさせる『主』の左腕を、まだ小さくやわらかい少女の両手が撫でる。少女が力をこめて太い腕を引くと、『主』はあまり抵抗もないままに、その背を丸めて前のめりになった。
両手両脚で、半ば四つん這いのような体勢になった『主』の額に、少女は優しくキスをした。瞬間、『主』の心臓からは音が止んだ。代わりに痛いほどの静寂が、大きな人形と小さな少女、ただ二人きりの地下室を支配した。
「オトキ」
少しの静寂の後、少女がそれを破り飛ばした。
無音を突き破ったその声は、少女の目の前にいる『それ』へと向けられていた。声は音となり、狭い部屋の中で反響し、重奏を奏でるように飛び回った。
少女はゆっくりと、しかし決意を込めるように。力強い声で言葉を続ける。目の前の鉄の塊に語りかける。
「――オトキ。
オトキ、聞こえていますね?
オトキ、聞いてください。
私の声を、私の言葉を。聞いてください」
それは歌のような。美しい声。旋律。
「オトキ、今日からは私があなたの指揮者です。
私の父はもういません。
私の父は死にました。
あなたの昔の指揮者はもういません。
あなたの昔の指揮者は死にました。
私は父のように、上手に指揮はできないでしょう。
それでも私は唄えます。あなたの歌を唄えます。
あなたと共に唄えます。私の歌を唄えます。
だから、だからもう一度、音を奏でましょう。
私と一緒に。
私とあなたの音を奏でましょう。
オトキ。オトキ。
音機。今、このときが。私とあなたの。
――はじまりです」
かちり、と音が鳴った。
音機の心臓が。時計が動き出した。同時に心臓の鉄琴が、少女の知らない旋律を奏で出す。それは少女が聞き慣れていた、少女が何度も夢で聞いた、あの父の旋律ではなかった。音機は、これから少女が指揮を執る、この少女だけが紡げる旋律を奏ではじめていた。
「アルジ」
音機は声を出した。
それは音というには、あまりにも感情がこもっていた。音機は少女にアルジと言った。音機は少女を主と呼んだ。
少女は微笑むと、またもう一度音機の額にキスをした。音機は従順に契約を交わすと、少女を自分の肩に乗せた。大きく冷たいその肩に、寝起きの火照った体温が宿る。
小さな地下の一室で、少女は指揮の指を振る。音機は応えて心臓を鳴らす。拍動に乗せて、少女が唄う。音機と少女のはじまりを唄う。
新しい音楽が階段を上り、少女の家中に広がっていく。
やがて音は風に乗り、世界中に広がっていく。広がっていく。
♪
♪
あのころ。
私がまだ、今よりも。ずっとずっと小さかった、あのころ。
珍しく、父が私を自分の仕事場に連れていってくれた。散らかった仕事部屋の真ん中には、大きな大きな鉄の塊。父は本当に嬉しそうだった。それがなにかを教えてくれた。音を奏でる機械人形。父が生涯を賭した人形。私に遺した、生きる楽器。
名前は音機。
どうしてこんなものを造ったのかと、父に聞いた。
どうしてこんなものが動いているのかと、父に聞いた。
どうしてこんな音楽を唄わせるのかと、父に聞いた。
どうしてこんなものを遺していくのかと、父に聞いた。
何度も何度も。その度に、父はいつも笑って言ったものだった。そう、あの日も。それはいつも同じ言葉。それはいつも、たったの一言だけで。
「――救うためだよ」
それが、私の父が遺した言葉。
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