「おやすみ」
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主が死んだ。
もう二、三日も前になる。
幾年も付き合い、共に世界の地を踏んできた私の主。
その私の主だった人が、死んだ。死んでしまった。
重度の病であったらしい。
恐らくは旅先の汚い空気を吸ってきたことが原因だったのだろう。無理もないことだ。この世界はどこもかしこもひどく汚染されていた。私と違って人間である主にはこの世界は汚すぎた。煤や塵を多く含んだ煙によって肺は黒く汚れ、所々の細胞が腐り落ちていた。感染した菌はあらゆる内臓に転移し、長い旅の最中も少しずつ主を蝕んでいた。普通ならとうの昔に寝たきりの状態になっていてもおかしくなかったという。主が床に臥したときには、もうすでに手練れの医者でも手が出せないほどの重態になっていた。
思えば主はいつも青白い顔をしていた。いつものことだと思っていた。あの人はいったいいつから死に至るほどの病を感じていたのだろうか。そしてどれほどの間、私にそれを隠していたのだろうか。主の傍を離れることのなかった私でさえ、結局主の不調には気づくことができなかった。
主は強かった。命の灯火が燃え尽き果てるその瞬間まで、主は微笑みを絶やさなかったらしい。あの人らしいといえばあの人らしい。結局主は倒れた後も、自分の苦しんでいる顔を周りに一切見せないままに逝ってしまった。
まったく人間とは儚く脆いものだ。主と同じ世界を歩んできた私の鉄の身体はほとんど傷んだ部分は無かろう。死という概念を知らないこの心臓は、未だコンマ一秒も遅れることなく針の音を刻み続けている。ずっと同じだ。主が生きていようと死んでいようと、私は何も変わらない。そう、変わらない。この愚かな鉄の従者は何ひとつ変わることがないというのに。
私に不調は無い。主が指揮棒を振れば、私はまたいつものように主の望む旋律を全身から現すことができるだろう。主が私の肩に乗れば、私は主の望む方角を目指し歩くことができるだろう。主がひとつ悲鳴を上げれば、私は主に襲い掛かる不埒者を叩き潰すことができるだろう。主の心ひとつで私は動くことができた。私は主を守る盾であり、主が振りかざす剣であり、そして主の奏でる楽器であった。私が主の二つ目の身体だった。私が主で、主が私だった。
しかしもう主はいない。同じだと思っていた存在は私より先に消えてしまった。私が守るべき者はもう、いない。
私は今、自分が生まれた場所にいる。暗く寂しい小さな地下室。あの日。地上では暖かな日が差し込み、小さな鳥たちが踊り歌っていた。あの朝。ここで私は産声を上げた。あの時。大きな時計が心臓に埋め込まれ、私の瞳に光が点った。あの日、あの朝、あの時に。私はこの世界に生まれたのだ。機械仕掛けの人形として。主に仕えるオルゴールとして。
「おはよう、音機」
――あの言葉を初めて聞いたときから、いったいどれほどの時間が流れただろうか。
多くの場所を巡って来た。様々な景色を記憶してきた。無限の音楽を覚えてきた。そして共に歩む時間が刻まれる度、私の隣にいる人は成長し、その度に朽ちていった。しかし、その間私の身体はなにも変わらなかった。何を知ろうと、何を見ようと、私が主のオルゴールであるという事実だけはまったく変わらなかった。それは今も変わらない。これだけは私の永劫普遍の真実だ。身体をめぐる油をたまに入れ替え、錆びた鉄板を磨いてさえいれば、私は永遠に稼動していられる。そうして私はまだ生きている。胸に埋まっている永久時計が破壊される時まで、私は決して死ぬことはないのだ。
この世界で主だけが私の心臓の秘密を知っていた。私の主となった人だけが私の心臓を止められる。そのことも主は知っていた。しかし、主は最期まで私の心臓を破壊してはくれなかった。私は主と共に死ぬことができなかった。
主は私を連れて逝ってはくれなかった。
私は涙を流せない。私は自ら言葉を発せない。
私は自分の殺し方を誰かに伝えることもできなければ、主の死に咽び泣くこともできない。今この秘密の地下室に自分がいて、こうして主の死を嘆いていることを人に教えることもできない。私はただここに存在し続けるしかない。太く無骨な二本の脚で立っていることしかできないのだ。
悲しくはない。寂しくもない。ただ、虚しい。
そもそも私の中に感情というものが存在しているのかどうかさえ怪しいものだ。こうして思考していることが、私を産んだものの手により計算の上で可能になったことなのか、それすらも決して定かではない。いつも私は主の命のまま、主の望みのままに従い、仕えていた。ただ淡々と自分の役目だけを遂行した。思考は不要だった。それだけが私の生まれた理由なのだから。私はそのためだけにこの世に生を受けたのだから。しかしもう主はいない。私の存在する理由は消えてしまった。いまや私がここに生きている必要はない。
私は自ら死ぬことができない。
それどころか私は主の命が無ければ、歩くことも、音を生むことも、自分にたかる虫を払うこともできない。唯一できることはゼンマイがなくとも『生き続けること』。未来永劫生き続けることで、自分の隣にいる主を守ること。それが私のすべきこと。最大にして最優先すべき、私の『できること』。
機械仕掛けのこの身体は死を知らない。たとえ外側が錆に覆われようとも、その毒が心臓に届くことはない。私の身体はそのように設計された。主より先に死ぬことは許されないのだ。指揮者を見捨てて死ぬことは許されないのだ。
そう。死なないのだ。たとえそう願って私を所持していた主が死んでしまおうとも。たとえ守るべき対象がこの世から消えてなくなってしまおうとも。たとえ地上の生物が私を知らぬまま絶滅してしまおうとも。何が起ころうと、私だけは絶対に生存し続けなければならないのだ。
寂しくはない。しかし、わからない。
主は一体何を願って私を生かしたのだろうか。私は一体何のためにここにいなければならないのだろうか。私はここで一体何を待ち続けていなければならないのだろうか。私は見捨てられてしまったのか。どうして死後も私を仕えさせてくれなかったのか。死期を悟り、私をここに置いていったとき。あのとき主は最後に何を言っていただろう。私に何を命じていただろう。
ココロのない私は主の真意を読み取れなかった。私には何もわからない。主が何を私に託して死んでいったのか、私はわからないままでいるのだ。この先どうすればいいのかわからない。ああ、主は私に、――何と言っていた?
時計が音を刻む。
私の心臓が、私の脳が、私の心が。音を刻む。
――かち。
「お前も疲れただろう」
――こち。
「すぐに起こしてあげるから。きっと起こしてあげるから」
――かち。
「だから……お前も少し眠って待っていなさい。音機」
――こち。
それは記憶の音。
私の最後の記憶の音。
思い出す。思い出す。思い出す。
主の遺した最期の言葉を。私への最後の命令を。
眠っていろ、と。待っていろ、と。主はそう言って死んでいった。主は私に待っていろと命じた。何かが私の全身を駆け巡る。光のような、熱のような。何かが私の中を走った。同時に気づく。私は従うしかないということに。それが主の望みだったのだから。疑うことは許されない。私は主の為に生まれてきたのだから。疑うことは許されない。起こしてくれる者などいるはずもない。そんなことは機械人形の私でもわかっている。それでも私は眠っていなければならないのだ。
そうだ、疑ってはいけない。
そうだ。そうだったのだ。
何も迷うことはなかったのだ。私は疑ってはいけなかった。私は主を信じていなければいけなかったのだ。ずっとそうしてきたではないか。そして今も、決してそれを変えるときではない。私は何も変わっていない。私は何も変われない。これから変わることもないはずだ。何を思うこともなく、私は主の命ずるままに動かなければいけなかったのだ。
主の死によって生まれたイレギュラーな思考が突然開けた。主が何を思って私に眠れと命じたのか。そんなことはどうでもよかったのだ。私は私にできることをしよう。答えの出ない思考など私にはふさわしくない。
ああ、ようやく気づいた。ようやく気づけた。
私は人形だ。主に仕える人形だ。
やっと解放された。とても清々しい気分だ。安心した。油の巡りが遅くなってきた。心地いい。余計な蒸気を全て吐き出す。視界が少しずつ暗転していく。思考が鈍る。光が、意識が、ココロが。消えていく。忘れていく。眠りに落ちる。
私は眠ろう。信じて眠ろう。
いつかきっと主が私を起こしに来る、その日まで。またあの長いト音に触れられる、その日まで。
待ち続けよう。アルジの命のままに。
たったひとつの私の使命。それが私のできること。
「おやすみ」
――かちり。
音機 - 「おやすみ」
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