また、いつか。
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**笹空の日 二と四の時
小さな木作りの机の上に、小さく広げられた手紙が二枚。
片方は細かく丁寧な筆跡。
先に開かれたのはこちらのようだった。
日に透かすと、それはもう遠い昔に書かれたものであることがわかる。虫食いや染みこみが少々目立つが、読むことに支障はないようだ。私は傍の木椅子に腰掛け、不躾にもその手紙を読み始める。
友に宛てられたものだった。
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拝啓
親友殿へ。
突然のお手紙、申し訳ありません。
あなたが月へと旅立ってから、もう一年が経ちました。お元気にしていらっしゃるでしょうか。
兎に襲われてはいませんか? 汚染した空気に冒されてはいませんか? 歯車の音に耳を焼かれてはいませんか?
それから、あなたと一緒に行った『あの機械』も。元気に唄っていらっしゃいますか? まだ二人で生きているのであれば、おそらくはまだ月にいるのでしょうから、きっと油や部品に困るということはないのでしょうが。
ちなみに私は元気です。あなたが箱舟に乗ったあの日から、こちらは何も変わりありません。私だけでなく、Arefも、Semmも、とても元気です。きっと元気でしょう。気づけばもう何年も会っていませんので、残念ながら断言することはできませんが。たぶん、とても元気です。二人とも絶やさず便りをくれますから(決してあなたに対する嫌味などではありませんよ)。
ただ、ほんの少し寂しそうではありますが。それは私も同じです。ほんの少し、寂しいです。
そう。あなたたちがいなくなってからです。私は少し寂しくなりました。あなたが指揮棒を振り、『あの機械』が唄う。あの頃の二人の姿が、私はとても好きでした。あの頃の二人の唄が、私はとても好きでした。他のどんな景色より。他のどんな音楽より。私は何よりあなたたちを愛していました。それは今も。私は何よりあなたたちを愛しています。
ですから。
――ですから、あのときは驚きました。そう、あなたが「月へ行く」と言った、あのときです。
夜にだけ姿を見せる、凶々しい光を放つ丸い大陸。あの頃はもとより、今でもまだ。自らあそこへ行こうなどという人はあなたたちの他にいません。
土地は継ぎ接ぎの鉄板で固めなければならないほどに弱り、そこかしこから突き出した煙突からの煙毒で空気は廃り、永遠の夜が支配する中でも健気に光を点す町の中では、錆びた鉄と黒い油が蠢き、そこで懸命に生きる人々は、やがて巨大な工場の生み出す欲望と絶望にまみれてしまう。まさに地獄と呼ぶにふさわしい世界。それが私の知る月でした。
そんなおぞましい場所にあなたが向かうと言い出したとき、私は耳を疑いました。あなたの心の中をろくに知ろうともせず。あなたの瞳の奥に秘められたひとつの決意を知ろうともせず。ただ反対ばかりしていたような気がします。
今は違います。今はあなたを応援しています。もちろん、私だけではありませんよ。あなたの親友みんなが、心からあなたを応援しています。――だから私は、あなたにあのときのことを謝らなければなりませんね。いつものように笑って送り出してあげられなかったことを。あなたを傷つけ、最後までわがままを押し通してしまったことを。強く、強く。後悔しています。
今でも憶えています。忘れたことはありません。
あなたはあの日、こう言っていましたね。
「私は月に幸せと救いを届けに行きたい」
「私はあらゆる命に。あらゆる心に。この世界の全てに。幸せを届けに行きたい。彼らを救ってあげたいの」
「だって私にできることは、指揮棒を振ることだけだから。そうすることが私の全てだから……」
私にはわかりませんでした。あのときの私は、あなたの思いが理解できませんでした。親友であるあなたを失うことばかり恐怖していました。両親を失い孤児となった私にとっては、既にあなただけが心の支えだったからです。それは自分勝手な理由でした。私はわがままであなたを押さえつけました。私にはあなたが存在しない世界など想像もできませんでした。私はあなたを失いたくなかったのです。
しかし、その境遇はあなたも私と同じでした。あなたは生まれてすぐに母親を失い、十六のときに父を失いました。いいえ、同じ境遇であったからこそ、私たちはあなたも私たちと同じ思いであると信じていました。互いが互いの支えとなっていると信じていました。
でも、そうではありませんでした。あなたは私より、私たちより、ずっとずっと強い心の持ち主でした。
もちろん恨んでいるわけではありませんよ。
もしかしたらあの頃はほんのちょっとだけ、そういった思いもあったのかもしれませんが。でも今はむしろ、私はあなたを尊敬しています。あのとき私を突き放してくれたこと。心から感謝しています。ありがとう。
あなたは前にいたのですね。私たちよりもずっとずっと前にいたのですね。私がそのことに気づいたのは、あなたが旅立ってから四つも空が移ったあとでした。後悔しました。あなたは私に教えてくれようとしていたのに。
――私たちは親友同士でありながら、互いが互いのことをほとんど知りませんでしたね。というよりも、知っているのは相手が自分と同じ境遇であるということと、あとはそれぞれの名前くらいでした。他のことは何も知りませんでした。知ろうとしませんでした。過去を知ることを恐れていたのかもしれません。自分の過去を見つめなおすのが怖かったのかもしれません。とにかく私たちは、私たちのことを知りませんでした。それはあるいは、親友と呼び合うのもおこがましい関係であったのかもしれません。
しかし。名前しかわからないあなたは、いつも私たちに唄を聞かせてくれました。細い指揮棒を持ち、透き通るような声で歌いながら。鳥や風と舞い踊るように腕を振るあなたと。そのリズムに合わせて柔らかい音楽を奏でる『あの機械』。その旋律は毎回違うものであるはずなのに、どこか懐かしく、そしてとても暖かいものでした。
私たちが指揮棒を借りて機械の前でがんばって振り回しても、機械はうんともすんともいいませんでしたね。あのときのArefの悔しそうな顔ったらなかったです。それはあなたのすごさを知ったときでした。あなたの偉大さを知ったときでした。
あなたたちがいなくなって、私ははじめて気づいたのです。あなたたちがいつも私たちに幸せを与えてくれていたことを。ひどく小さな存在であったはずのあなたが、ただ私たちのためだけに指揮棒を振ってくれていたことを。不恰好なほどに大きな存在であったはずの『あの機械』が、こんな小さな私たちの世界の中だけで、幸せな音を奏でていてくれたことを。それは当然であったはずなのに、それまでずっと気づけずにいたことでした。申し訳ないとさえ思いました。
あなたはずっと前を見ていました。
ずっと外の世界を見ていました。
だから月へ行ったのですね。
私は裏切り者だと思いました。私たちを置いて行ってしまったのだと思いました。広い外の世界に魅了されたあなたが、自分の持つ力を外に誇示したくなったあなたが、無力な私たちを邪魔者扱いしたのだと思いました。たった一人で外に出て行くあなたを妬みました。ひどく羨ましく思いました。
でも、そうではなかったのですね。あなたは私のように自分勝手に外に出て行ったわけではなかったのですね。月のため。月に生きる住民のため。ひいてはこの世界のため。
そして、私たちのために。外の世界へ旅立っていった。
Arefは西へ行きました。ひとつ空を越える頃に、旅の記録を手紙に載せてくれます。たまに珍しい宝石を綴じてくれます。そう、この間は、箒雲がかかった空のように青いアルダージュが届きました。そういえばあなたは空が大好きでしたね。きっと気に入ると思います。もっともあなたのことですから、もういくつも持っているのかもしれませんが。
Semmは街で機械の研究をしています。この間は自分が一人で作ったのだといって、やたらに大きな掛時計を持ってきました。会うたびに油と煤で顔をぐしゃぐしゃにしていますが、いつもきれいな笑顔を見せてくれます。信じられますか? いつでも無口で、ぶっきらぼうで、しかめ面で。あなたが唄を聞かせてあげないと決して笑顔を見せてくれなかった、あのSemmがですよ?
二人は外に行きました。私もこの手紙を書き終えたら、そろそろ出発しようと思っています。だからきっとあなたへの手紙も、これが最初で最後のものになるでしょう。
行き先は特に決めていません。ただどこに行くにしても、せめて死なないようにはしようと思っています。そう、死ぬことはできません。もう一度四人…失礼しました…『五人』で、一緒に歌えるその日まで、ね。
だから、
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もう一枚は、比べてしまうとだいぶ拙い筆跡。
黄色い油の染みがところどころについた紙切れに、無駄に太く黒いインクが右上がりに踊っていた。幼く読みにくい字を追っていくと、どうやらそれは返事のようだ。
友人の、返事。
+>
お手紙、ありがとう。
懐かしい親友からのお手紙など、なんだか読むのも緊張してしまいました。
はじめに。とりあえずは、ご心配なく。こちらはとても元気にしています。元気すぎるほど元気だとよく言われます。実際外に出てから身体の不調を感じたことはほとんどありません。もちろん隣の『こいつ』も。本日も動作良好です。…ただ、二人とも親友に見せられるほど綺麗な格好ではありませんね。なにしろここ一月ほど宿にありついていないものですから。そろそろ柔らかいベッドと美味しい食事…の前に、とにかくシャワーが浴びたいです。油がこびりついて気持ち悪いのです。いや、汗かなあ、これ。
さて。
こんな手紙をくれたということは、あなたは…いいえ、あなたたちは…きっともうわかっているのでしょうね。私がどうして今『ここ』にいて、私が今『なに』をしているのか。
私はずっと教えられてきました。私は全てが見える場所で、全てを幸せにしなければなりませんでした。
きっと、私はいつかこの月を発つのでしょう。それがいつになるかはまだちょっとわかりませんが、そう遠い未来でもないように思います。自分で言うのも云々になりますが、この一年で私たちもだいぶがんばりました。もう少し。――そう、あともう少しです。
月を出た後のことは、やっぱりあまりちゃんと考えていません。こんなことを書いてしまうと、何も変わってないなあ、なんて言われてしまうかもしれませんが。実際何も変わってないような気もします。私も、『こいつ』も。
ただ言えることは、あの場所に戻るようなことはもうないだろうということです。あの場所は私にとっての始まりで、通過点でも終着点でもありませんから。
ただもちろん、それでもあてもなくぶらぶらしているのは問題でしょうから、そろそろ方角だけでも決めておこうとは思います。あなたの呆れた顔が目に浮かぶようです。どうか無謀だと怒らないでください。
そう、怒らないでください。恨まないでください。思い返してみると、私はいつもあなたたちを置いて行くような真似ばかりしていたように思います。心からすまなく思っています。どんな理由であろうと、私があなたたちを少なからず傷つけてしまったということは、覆しようのない事実なのですから。
あなたが言う『あのとき』。…正直私は、もしかしたらあなたたちを見捨てようとしていたのかもしれません。父との誓いがあるからだと自分さえも偽って、あなたたちを裏切ったのかもしれません。
しかし、しかし。これだけは信じてください。私はあなたたちを本物の、唯一無二の親友だと思っていました。これは真実です。私が書ける嘘偽りのない最大の真実です。『だからこそ』、私はあなたたちに一緒に来てほしくはなかったのです。一緒にいてほしくもなかったのです。私が進んでいるこの道は、私以外が進むべきではないのです。
――もしかしたら、今のあなたが一番よくわかっていることかもしれませんが。それはあなたたちが邪魔だと言うことではありません。この道は私だけの道なのです。私だけが通ることのできる道なのです。あなたたちと共にこの道を通れば、きっとあなたたちを不幸にしました。そう思って私はあなたたちを置いていったのです。私は父との誓いの道…ひいては自分の信念の道を進む上では、私はあなたたちと一緒にいることが、どうしても。どうしてもできなかったのです。
このことを伝えることができなかったのが、私にはずっと心残りでした。だから今、ここに記しました。どうか怒らないでください。どうか、あのときのような顔はしないでください。
ただ私は、私たちは…あなたたちを幸せにしたかっただけなのです。唄を歌うことで、幸せを世界に配ること。これが、このことだけが、私たちにとっての真実なのです。
…そろそろ書ける部分がなくなってしまいます。
そして、気づいてしまいました。もしかしたらこの返事が届く頃、あなたはあの場所にはもういないのですよね。あなたもあなたの道を歩んでいるはずなのですよね。
…少し考えてしまいましたが、それでも私はこの手紙をポストに入れようと思います。希望を込めてだとかいずれきっと読んでもらえるだろうとかそういうことではなく、手紙が着たら返事を返さないと気持ちが悪いのです。これもまた、私のわがままで自分勝手です。
届かないかもしれません。読まれないかもしれません。それならそれでいいと思います。だって、あなたが約束してくれましたから。それならいずれ必ず来るそのときに、この口で言えばいいことです。
だから、そう。私も約束します。
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まったく同じ言葉で終わる二枚の手紙が、小さな木作りの机の上に置かれていた。暖かな夕日に晒され、薄い手紙が透ける。
その傍には、さわやかな青色に輝く一欠けの宝石と、無骨に錆びた一本の大螺子。そして、少し乱暴に彫られた文字が。
どちらの手紙の筆跡とも合わないその五文字は、
「また、――
音機 - また、いつか。
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