母
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私がこれから語るのは、私をこの世に産み落とした、とある女性の話です。
はじめにひとつ断っておきますが、私は母を心から愛しています。今から私は母の話をしますが、一連のそれを聞いても、けして私が母を憎んでいるとは思わないでください。そして、この話を聞いたあなたが、私の母を憎むようなことも私はけして許しません。許しません。許しません。
あなたは私の話をただ聞いていてください。私が話す、私の母の話を、ただ淡々と聞いていてください。
私の母は、ごく小さな里の貧しい家に生まれました。長い艶やかな栗色の髪が彼女の自慢でした。格別美人というわけではありませんでしたが、温厚で誰にでも分け隔てなく接する性格も手伝い、彼女は老若男女を問わず里の皆から慕われていました。両親を早くに亡くし、森の少し奥まったところにある小さな家と畑を住処としていた彼女でしたが、それでも縁とする男を結ぶことなく、細々と命を繋いでいました。
ひどく小さな里が彼女の生きる世であったためか、彼女に狼藉を働くような男はいませんでした。里の多くの人々から好かれ、慈愛の目を向けられていた彼女に薄汚い手を伸ばせば、その明朝には心身を切り刻まれ、愚かな醜態を肥溜の上に晒し上げられることが明白でした。貧里とはそういう世界でした。外界からは完全に隔離され、その中身は無言の規律と圧力によってやっと存在していました。ひどく臆病な人間たちが、その細い体を必死に寄せ合うことで身を守っていました。彼女は、そんな薄汚い人々の一番奥底にほんの一かけらだけ存在していた「優しさ」という良心に、唯一として奇跡的に守られていた人でした。しかし、彼女はそんな自分の立場を驕ることなく、たった独りでさらに小さな世界に閉じこもり、他人と強く関わらずに生活することを喜びとするような人でした。
そういう母≠私は知りませんでした。
私が知る母≠フすべてが終わった後に、私はそういう母≠知りました。私が名前も知らない男の、卑しくもおぞましい性欲と支配欲にまみれた日記から、そういう母≠知りました。
私の記憶の母はそういう人間ではありませんでした。
私の知る彼女は心を壊していました。傷みきった白混じりの髪を振り乱し、私を見ては狂叫し、握り締めてけして離さない酒瓶で私を殴りました。私の頭から黒い血が流れるのを見ると、また言葉とも鳴声ともつかない大声で喚き出し、しばらくすると部屋の隅で無言の涙を流していました。
小さな家は所々が壊され、命を頼る畑は常に踏み荒らされていました。それをしたのは彼女自身の手であることも、里の人間たちの手であることもありました。食べ物は近くの森へ赴き、私が素手で兎や蛇を獲り殺し、皮を剥いで生肉を採ってくるのが常でした。そうして動物の血にまみれた私の両手を見ると、彼女は黄色い歯を剥き出しにして喚きました。美しくさえ見える真白い肌を頬だけ異様に赤く染めて、何度も何度も私を殴るのでした。
「お前なんかお前なんかお前なんか」
「なんでどうしてこんな薄汚いものが」
「お前のせいで」
「お前のせいで」
「お前のせいで」
砕けた軽い酒瓶で、何度も私を殴るのでした。
家の外からは、時々里の人間の罵声が聞こえてきました。私の家は二人の魔女が住む家とされていました。石が投げられて壁が壊されたり、十字架が刺さって死んだ鼠が玄関に置かれていたり、悪いときは銃弾が爆音を上げて撃ち込まれたりしていました。シネシネシネとまるで怨霊のような言葉とともに火が投げ込まれました。私と母は、奥まった小さな部屋のそれぞれ別の隅で震えていました。そういうことになったとき、私と母は決して互いに口を開きませんでした。開けなかったというほうがより正しい表現かもしれません。私と母はなにか恐ろしい感情に抑圧されていました。ただただ何も言わずに震えていました。外の人がいなくなるのを待ち、その後には壊されたものの修理をすることもあれば、あきらめることもありました。あきらめる頻度は徐々に増えました。直しても直しても、結局すぐに同じところが壊されてしまうからです。同じところが、壊されてしまうからです。
彼女の壁が崩壊を始めたのは、彼女が私に知る彼女になり始めたのは、私がこの世に生を享けるちょうど一年ほど前のことでした。彼女がまだ温かで健全な心を抱き、愛と慈しみを誰よりも受けていたのは、ある日を境に終わりました。それが心の命日でした。
森の奥まった里の中としては珍しく、その日は少し風が強く吹いていました。彼女はその日の分の畑仕事を終え、少ない洗濯物を干し始めていました。
ふ、と強い風が吹きました。
風は彼女の両手から白い布を攫い、森の奥へと流していきました。彼女は愚かにもそれを追いました。追ってはいけなかったものを追ってしまいました。それが彼女の罪でした。
布が彼女を誘った場所。それは群れる銀狼の巣でした。ようやくそのことに気づいた彼女が一声を上げる間もなく、彼女は内の一頭に口を塞がれました。その後のおぞましい光景を語ることは私の心に耐えません。彼女はその命こそ壊されませんでしたが、純潔と精神を引き裂かれました。肉欲に溺れ盛った獣たちは、たったひとつの容赦もなく、彼女をただの雌として犯罪しました。彼らが快感に叫ぶごとに、彼女は髪を銀色に染めました。彼らと同じ獣に近づいていきました。彼女は魔女となりました。
里の人間は彼女を魔女と呼びました。狼に殺されず、生きて帰ってこられるはずなどないと。体で里を売った裏切り者だと。これまで守ってやった恩を忘れた非道な女だと。異質物だと。化物だと。悪魔だと。罵ったのです。壊したのです。壊れてぼろきれになった彼女を踏みにじったのです。それが彼女に対する罰でした。彼女はあの日、人間が終わってしまったのです。
その一年後に私は生まれました。生まれてきた私は、彼女を絶望の際から奈落へ叩き堕とすのに充分すぎる姿をしていました。人間としては異様に長い銀色の体毛。ひどく長い爪と牙。尖った耳。一滴の涙も流さない大きな瞳。誰の、いいえ、どの≠ニも知れない遺伝子から成るその容貌。彼女の腹から産まれた証はただ二つ。縦長の二つの耳の間から生える栗色の髪の毛と、アンバランスな人間の骨格が、私の血に人間が存在していることを語っていました。私は彼女の中の最後の「人間」を奪い取りました。
彼女は何度も私を森の奥に投げ捨てました。その度に私は帰ってきました。両手と口を血に染めて。ほんの少しずつ体を大きくして。どうやってあの森の中から家に辿り着くことができたのか、私は今でもわかりません。おそらく彼女への愛情と、遺伝子に刻まれた野性の本能が、私を産んだ母の元へと導いてくれていたのでしょう。
私が生を享けてから、ちょうど三年が経ちました。私はいつものように森で兎を狩り、今にも死にそうな彼女の元へ肉を届けに行きました。私は言葉を知りませんでしたので、全身を床に投げ出してうつむく彼女の近くに肉をそっと置いて、殴られる前に部屋を出ようとしました。
瞬間、彼女の細い腕が私を掴みました。
彼女が死んだ魚のような目でこちらを見ていました。彼女の顔は骨の形がわかるほどに痩せこけ、腕も骨と皮しかなく、腹だけが大きく膨らんだ、およそ干物のような姿でしたが、私を掴んだ力は尋常なく強烈でした。
「あれだけ腹を殴ったのに」
老婆のような声でした。妙に機敏な動きで立ち上がり、反対の手はもたれていた戸棚を探っていました。
「あれだけ腹を切り刻んで」
戸棚を探る手が止まりました。鈍色の刃が逆手に抱かれていました。
「沸かした湯をブチ込んで」
刃が私の頭上にかざされました。
「直接指でほじくり出して」
彼女は私を見ていました。
「それでもお前は生まれてきた」
綺麗な刃でした。
「ああ」
刃の光に反射して映る私。
「ああ」
私の瞳に映る私。
「お前さえ」
銀色で。
「お前さえ生まれてこなければ!」
生きるための感触が私の喉笛を満たしました。
気づけば彼女は私を見ていませんでした。彼女は何も見えなくなっていました。握られていたはずの刃は、床の上で力なく輝いていました。
彼女の肉と血の味が、私の牙から、舌から、喉から、全身へと回っていきました。首を半分なくした彼女が、私の両腕にぐったりと抱かれていました。涙とも血とも、自分のものとも彼女のものともわからない真っ赤な液体が、私の白銀の頬を染めていました。
きっとはじめにも言いましたが、私は母を心から愛しています。
母がいなければ私はこうしてこの世に生を享けることも、かけがえのない友人と出会うことも、外の世界にあふれる喜びを知ることも、こうしてあなたに話をすることもできませんでした。母が私に命をくれたのです。母が私を生かしてくれたのです。たとえ母が私を愛していなくとも、私は母を愛しているのです。
私の話したあらゆる人に、一人としてエゴに溺れていた人はいません。皆が皆、私のために時間を尽くしました。私があなたに話したすべての人が、今の私をつくりました。皆が私の血肉となって、私の中を廻っています。私は感謝しています。彼らのおかげで、私は今、ここであなたと話ができたのですから。
静かに聴いていてくれて、本当にありがとうございました。これは私の母の話であり、私の懺悔でもありました。
ああ。私はこれから友に会いに行くつもりです。あなたは何もわかりませんが、あなたの次の人生の道にも貴き出会いがありますように。
おやすみなさい。
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