...音機
僕と

 この世界は壊れてしまった。
 醜い月が吐き出す毒煙は空気を汚し、濁った油の雨は水を汚し、歪な歯車は大地を汚した。
 結局何も変わらない。人間は同じ失敗を繰り返してしまった。隠蔽された過去はその思惑通りに完全に忘れ去られた。結果として、今まさにこの世界は二度目の崩壊を迎えようとしている。
 誰かが防がなければならない。負の連鎖は止められなければならないのだ。恐ろしい歴史は繰り返されてはならないのだ。
 この世界は修復しなければならない。真実を知る者の手で。
 
 ***
 
 暗く湿った地下の一室。
 手をつけようにもどこから触れたらよいものか、と。ひどく散らかった大きな部屋。床には丸まった大小の紙屑が放られ、何に使うのかわからない道具や細かい部品が一杯に詰まった作業箱が無雑作に置かれている。周りを囲むように置かれた本棚からは本があふれ、しかしそれでも部屋の真ん中にある机の上には、人が生涯を三代かけても読みきれないほどの本の塔。実に四本もそびえ立っていた。
 そんな様子である。どう見ても作業スペースが相当に削られているはずの机だが、対の椅子では純人間の青年が、黙々と薄い紙に黒いインクを落としていた。
 年の頃は人間の数えで二十代の中あたりといったところか。髪はしばらく切っていないのか、それぞれが自由にそっぽを向いて跳ね伸びる。小さなゴムで後ろに結わいてはいるものの、清潔感はあまり感じられない。しかし細めがねをかけたその顔つきは整い、細身と童顔も手伝ってだいぶ若く見える。五つ近く実年齢を誤魔化すこともできそうなところであった。
 白衣のあちこちをインクやコーヒーで汚した青年は、一心に製図用の定規やコンパス、そして愛用の楽譜筆を走らせていた。ようやっと一枚の紙の最後までペンを滑らせると、うっとおしそうに肩を鳴らし、ついでに大きく伸びをした。細い関節が嫌な音を立てる。椅子が悲鳴を上げた。
 
 不意に扉を叩く音が響く。青年が軽く承諾を示すと、椅子よりひどい悲鳴を上げて木製の扉が開かれた。
「なんだ、また『おたまじゃくし』か」
 挨拶もせずに不躾な口調とともに現れたのは、だいぶ体格のよい半トカゲ族の中年であった。種族特有の硬く鈍く光る緑色の鱗を見せ付けるように――隠す気もさらさらないのであろう。その肩を揺らし、座ったままでいる青年に近づく。
「娘が泣くぜ。こんな汚い部屋に父親が引き篭っていたらな」
「『そう』ではありませんよ。似たようなものかもしれませんが」
 相変わらず汚い部屋だ、と言わんばかりに転がった紙くずを蹴飛ばしているトカゲをよそに、青年のほうは珍しい訪問者が現れたことをいたく歓迎した。最初の質問に返答すると、自分から一番近くにあった飲みかけの冷めたコーヒーと、一月前に開いた茶菓子をさも当然のように差し出した。
「娘もいい子です。母親に似たのでしょうね。これがなかなか美味しいのですが、どうでしょう」
「遠慮しておく」
 トカゲが心底を丸出しに顔をしかめると、青年は悪戯っぽく笑い、冗談ですよと両手の傷み物を置いた。背中側の小さな机の上から適当なカップを見繕って埃を拭き、新しい赤い蜜柑の茶を自分の分を含めて淹れた。
「俺が好きなのは林檎なんだがな」
「すっかり忘れていました」
 やはり悪戯っぽく笑う。純粋なままで寂しさを覚えた少年のような顔だった。茶と椅子を出すと青年はまた机に向かい、新たな紙に図形を描き始めた。
 
 放っておかれてすることもない。トカゲはあまり好きではない味の茶をすすりながら重た気に腰を上げる。流すような視線で机の上を覗き込み、そしてだいぶ変な声を出した。
「げえ」
「なんでしょうか」
 青年は驚いてトカゲを見上げた。驚きと呆れと、少々気持ち悪そうにしている顔がそこにあった。
「そんなに蜜柑が嫌いでしたか」
「そうじゃない。なんでしょうかというか、それはどうにもこっちの台詞だな」
 机の上にはざっと五、六〇枚ほどの紙があった。そのうちのほとんどは、もう何も描く隙間がないほどの直線と円と細かい数字、そして少しの小さな注釈で埋めきられていた。まだ描きはじめたばかりと思われる紙をふと見ると、それがもともとは五線譜の引かれた楽譜紙であったとわかる。その紙もすでに半分近くは埋まり、どこに=Aなにを=Aどれほどの大きさで=Aどうやって=Aそしてどうするか=B綿密に、精密に、神経質に設計されていた。
「あなたは『オルゴール』というものを知っていますか」
 トカゲが少しの間絶句していると、唐突に青年が質問した。トカゲはまた少しの間考えると、
「聞いたことがないな。お前が言うなら誰かしらの曲の名前か、そうでないなら本か何かの名前か」
「残念」
 また嬉しそうに青年が手を叩いた。からかわれたように感じたのか、トカゲは少しきまり悪そうに青年を小突く。赤くなった額をさすりながら、青年は呟くように先を言った。
「『オルゴール』というのは、遠い西方にある玩具の名前ですよ。だいぶ前にある旅人に話を聞きました。実物を見たことはまだありませんが、ゼンマイを巻くと箱の中の部品が動いて音楽を奏でる、一種の楽器のような玩具らしいです」
「これがそのオルなんとかの設計図ってことか? ただの玩具にしちゃあ、見た感じずいぶんでかくて精密なもののようだがな。箱って感じの形でもないようだしな」
 トカゲは紙をつまむと、またじっくりとそれを眺めてみた。突如膨大な量の情報が直に頭に流れ込んでくるような感覚に襲われ、急な吐き気から目を逸らした。ふと気づくと、青年はまだ楽しそうな笑顔をトカゲに向けていた。
「なんだよ」
「そうですね。……そうでしょう」
 何の答えにもならない曖昧な返答をすると、青年は立ち上がり、自分とトカゲのカップを汚い水道で洗った。染みにならないよう丹念に磨いてから元あった場所に戻す。手持ち無沙汰なトカゲであったが、懲りずに何も考えないまま机の上に積んである本を一冊抜き取り、三行ほど目を通したところで気持ち悪くなって元に戻した。少し変色している茶菓子にも手を伸ばし、すぐ引っ込めた。不便なところだと悪態もついた。
 
 じめじめとした暗い地下室に明かりはほんのひとつ。さほど明るくもないその光に虫はたかり、その下の床は歩くごとにひどく軋んだ。そこここが腐り、抜けているところさえあった。トカゲは軟そうな椅子に腰掛け、この男はきっと掃除なんてするどころか、その言葉の意味を考えたことすらないのだろうとかそんなことを思いながら、友人よりもカップを丁寧に扱う青年の姿を眺めていた。
 もし自分の身内がこんなところに引きこもって出てこなくなったら、おそらく自分は縁を切るだろうな。そんなくだらないことも頭をかすめ、トカゲはなぜか少し憂鬱になった。上の家でたった独り父親を待っている赤ん坊を思うと、なにやらひどく心が滅入った。親友であるはずの青年に嫌悪感すら覚えた。
 
「三分の二くらい正解です」
 青年が二杯目の茶を差し出しながら、もうだいぶ時差のある質問に答えた。トカゲは何故だか動揺してしまい、飲むときにほんの少しを床にこぼしてしまった。落ち着こうと熱い茶をすすると、本日何度目かのしかめ面を作る。
「舌を火傷した。……また赤蜜柑か」
「すっかり忘れていました」
 わざとらしくおどけてみせる青年は、この数時間でまた更に若返って見えた。奇妙なほど童顔に見える。――というよりも、どんどん無邪気になっていくようだった。挫折しながらも挫けずにひたむきに、ただ夢に向かっている少年のような顔をしていた。諦めてばかりいる愚かな大人を焦らせるこの表情。青年は未来を信じきった瞳で年上のトカゲを見据えていた。
「どういうことだ。話が見えないな」
 トカゲが聞くと、青年は非常に満足そうな表情をつくった。まさにそれを聞いてほしかったと言わんばかりの顔だった。そして誇らしげに胸を張った。
「これは機械人形の設計図なのですよ。オルゴールを基にした演奏人形。それを造るための知識です」
「機械人形だと?」
 驚きすぎて茶を吹き出しそうになったトカゲを見て、青年はからからと笑った。トカゲの反応を心から楽しんでいるようであった。しかしトカゲのほうは反して懇願するかのような、血を吸った槍で刺すような。赤く燃えた眼で青年を睨みつける。
「馬鹿な事を言うな、知っているはずだろう。機械人形は禁忌。貴様、罪を犯すつもりか」
 
 機械人形。
 鉄と油で動く『生物』。疲れず、老いず、死なない『生き物』。知識あるものによって造られるそれは、いずれその『親』である自分たちを超え、世界を脅かす種になる虞がある。世界の上層部はこのことを恐れ、遥か夜空に浮かぶ『月』以外の場所での機械人形の製造を罪とした。
 その製造技術が精巧であればあるほどに罪量は増し、『ココロを持つ機械人形』の製造には死かそれと同等の罰が科された。ココロとは心。精神。魂である。
 
「こんなに精巧な機械人形など! この設計図だけでも見つかってみろ、あっという間に拷問部屋送りだ。貴様、あんなにできた娘を路頭に迷わせるつもりか」
「近いうち、必ず機械人形の存在が罪ではなくなる時代が来ます。おそらくは上の者からこのタブーを破っていくことになるでしょう。実際のところでは、既に『ココロを持つ人形』の製造法は確立されているそうですからね。裏ルートの売買が表沙汰になっても咎められなくなる、その時がくるまでは隠し通しますよ。この地下に置いておけば気づかれないでしょう」
 青年の顔は、いつの間にか少年ではなくなっていた。悲しみだけがこもったような静かな微笑みを湛え、自分を慰めるようにひどく苦いコーヒーを飲んでいた。
 
 重く沈んだ空気の中、青年は語り始めた。
 過去の全てを知る者として、自分の背負う責任を語り始めた。いつの間にか周囲の虫の羽音は消え、部屋には一人の人間と半トカゲしかいなくなっていた。静かな部屋に青年の優しい声が響く。木霊する。
「このままでは世界は壊れてしまいます。
 あなたも気づいているでしょう。いいえ、あらゆる民がもう気づき始めているはずです。
 空は汚れ、水は油にまみれている。最近は幻獣にも奇形が現れ始めているそうです。世界はまた崩壊に向かっている。何も変わってはいなかったのですよ。誰かが直さなければならないのです。待っているわけにはいかないのです。
 ……私はやがて娘にこの人形と指揮棒を預けることになるでしょう。彼女には私と同じか、それ以上の力がある。そう、母親に似てね。きっと音楽の才能を世界のために使ってくれます」
「……もしお前が俺の親父だったら、俺はとっくに縁を切っているだろうよ。ガキほったらかして、その上犯罪者すれすれの研究なんかしやがって。そのうえ平気な顔してる親父なんてな」
 トカゲがいらついた口調で返事を返す。それを聞いた青年は黙り込んでしまった。しかし視線はトカゲにのみ向いていた。どこか決意を秘めた瞳には迷いは無かったが、深い悲しみが暗く青を濁らせた。
 黄色い染みのついたカップを弄びながらも、二人はけして目を合わそうとしなかった。青年は悲しい微笑みを崩さない。トカゲが怒りと呆れを隠さず、ただカップの中の蜜柑茶を睨んでいるのを見据え続ける。
 そして、ゆっくりと言葉を返した。
「そう、そうです。これは私のエゴイズムです。私は勝手に夢を追い、娘にまでそれを押し付けようとしている。だから私は、自分が死んでからこの人形の真意を娘に託します。そこから先は、娘が決めることです。私と夢を追うか、否か。私には決められません。娘が決めることです。そうでしょう?」
 トカゲは黙っていた。
 それがこの親友が出した結論か。これまであらゆることに正しい答えを導き出してきた、この男が出した結論か。この世界の全てを知りながら、その上でこの男はこんな結論を出してしまったのか。
 トカゲは黙っていた。
 
「あまりにも勝手な話だ」
 ひとつの沈黙の後、トカゲが吐き出すように呟いた。
 この世に生きる全ての者の幸せを考え、その上で最善の答えを導き出す。これがこの青年の信条であった。少なくとも今まではそうだった。これからもそうであるべきだろう。そうでなくてはならないのだ。この世界にはそういう考えが、そういう人間が必要なのだ。
 トカゲはそれを知っていた。自分を見下す青年を鋭く見据え返す。トカゲもまた、ひとつの決心を秘めた瞳を見せた。
 そして言う。それは強い声だった。
「じゃあよ、見ていてやるさ。あと数十年で死ぬお前が娘に託す『夢』が、いったいどれほどの者を幸せにできるか、な」
 トカゲは豪快に笑った。今日、青年の前で初めて見せた笑顔だった。親友の夢を送り飛ばす笑顔だった。
「それが俺の責任だ。お前はお前の責任を果たせ」
 きょとんとしている青年を尻目に、トカゲはゆっくりと立ち上がり、部屋を出る。
「しかし娘は泣かすなよ。母親に似ていい子だ」
 
 この言葉を最後に扉は二度軋み、そして閉まった。
 地下室にはまた光にたかりなおす虫の羽音が響く。気が抜けたため息をつくと、青年は汚れた白衣を脱いで椅子の背に掛け、また机に向かった。残りの紙を埋めるため、楽譜筆にインクを染み込ませる。
 低い無機質な羽音と等間隔なペンの音が地下室を支配する。
 
 骨が浮き出るほどやせ細った身体を猫背にしながら、青年は紙に夢を書き込み続ける。
 ふと、呟いた。
 誰もいない地下室で、青年が呟いた。
 
「――ありがとう」
 
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+/TexT...
 001.音機
 002.僕と
 003.コトバツムギ オトツムギ
 004.また、いつか。
 005.Epilogue*Prologue
 006.月の民の話
 007.あるひとびとのにっき
 008.「おやすみ」
 009.それから
 010.母
 
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