...音機
Epilogue*Prologue

 唄が聞こえる。唄が流れる。
 私が一番好きな唄。それはあなたの歌う唄。
 私の身と心に透き通るように響くあなたの唄が、私にとっては一番心地よい。
 失いたくなかった。絶対に。絶対に。
 
 ごめんね。
 ごめんなさい。
 
 ♪
 
「――聞こえた?」
 少女の澄んだ声が響いた。
 右手にはト音記号を長く伸ばしたような不思議な形の指揮棒。余韻に任せて一気に回転させ、そのまま背中のホルスターに接続する。少女は踊るような身のこなしで地に舞い降り、つい先刻まで自分の唄を聞いていた観客達に向けて小さく頭を下げた。後ろでひとつに束ねられた白く長い髪がなびく。
「うん、よく聞こえた! 相変わらずきれいな声だね」
「昨日の晩からとても楽しみにしてたの。今日もありがとう」
「……よかった、よ。すごく」
 観客と言ってもそれはたった三人の子ども。それぞれが少女と同じ程度の年頃だった。見ると十代の中ごろといった程度か。
 その場にいるのは二人の少女と二人の少年。
 三人の良い感想を聞き、唄を歌っていた白い少女は安心したように胸を撫で下ろす。同時に気の抜けた、かつやたらに深いため息をついた。
「あああよかったー。よく聞こえるように昨日っからもう必死になって練習してたからさ、もーいろいろとがくがくだよ」
「ねえねえアルジ、明日も歌ってくれるの?」
 間髪いれず次の演奏会を求めてきたのは、四人の中で一番背の低い少年であった。華奢な体に見合わない大きめなつなぎを履いて、裾で躓いてしまいそうになりながらぴょこぴょこと跳ねている。
 アルジと呼ばれた白い髪の少女は、少年のうれしそうな様子を見て小さく苦笑を漏らした。ふと短めのポニーテールを掻き揚げると、瞳を少年に向きなおして少し残念そうに応える。
「んー明日は無理かもなあ。そもそも次の曲ができてないし、練習もしたいからさ。もうちょっと我慢してくんないかなあ、アレフ」
「えー」
 アレフと呼ばれた小さな少年は、自分の望みが叶わないことがわかるととたんに頬を膨らました。アレフの拗ねたような仕草を見て、一番年上に見える黒髪の少女が焦ってたしなめる。
「もうアレフ、アルジを困らせちゃだめでしょう! いつも歌ってくれるアルジだって大変なんだから」
「あーあ、いい子ぶって。自分だって残念で残念でたまらないんだろう? アルジの歌が聞けないと家に引きこもってばかりだもんなあ」
「な、そんなこと……」
 黒髪の少女に叱られるようにたしなめられたアレフは余計機嫌を損ねてしまったのか、そっぽを向いて悪態をつく。一方で少女はだいぶ図星を突かれてしまったらしく、言い返そうとしつつも結局押し黙ってしまった。
「まあまあ、ごめんごめん。また近いうちに歌うからさ、アレフ。もうちっとだけ勘弁してよ」
「えー、でも……おわ」
 少々不穏な雰囲気を吹き飛ばすように、アルジの屈託のない声が響く。
 謝りながらもまったく悪びれた様子も見せず、アレフの整わない髪を乱暴に撫でた。アレフが振り払いながら非難の声を上げると、アルジはまたほんの少し意地悪な顔をして、
「それにほら、こいつもも無理させるとぶっ壊れちゃうかもしれないからさ。今日もこれから調整するの。ね、音機」
 言いながら、先ほど自分が載っていた鉄の肩を軽く叩く。
 アルジに音機と呼ばれた鉄人形は先ほどから微動だにしない。人間の二、三倍もありそうな頭(と思われる部分)に小鳥が二羽ほどたかっていても、まったく我関せずといった風であった。眠っているのではないかとさえ思える様子である。
「うう、じゃあ歌う日が決まったら教えてね! きっとだよ」
「はいはい。転ばないようにね」
 またぴょこぴょこし始めたアレフをいさめ、アルジは帰り支度を始めた。音機の無骨な鉄の指にぶら下げていた小さな鞄を肩にかけ、くすんだような茶色のぼろいジャケットの間から見えるネクタイを軽く緩める。
 
「アルジ、ごめんね。また今度、よろしくね」
「……」
 先ほどの諍いを気にしていたのか、少し不安そうに黒髪の少女が声をかけてきた。
 その後ろには先ほどから一言も喋っていない長身の少年がついていた。長いマフラーに顔をうずめ、小さな目でじっとアルジを見つめている。
「ああなに、いいよ。ぜんぜん気にしないからさ、いつものことだし。そっちもお互い仲良くしなよね。あ、セムも静かに聞いてくれてさんきゅね。また来るから」
 アルジは少女にもまったく悪びれることなく握手し、ふらふらと手を振って別れの意を示した。
 長身の少年――セムには少し背伸びをしながら無理やり頭を撫でてやり、頬に軽くキスをした。もう一度ふらふらと手も振ってやる。
「アレフにはああ言ったけどさ、実はどうにも新しい曲が浮かばないんだよね。だから次がいつになるかわかんないんだけど。申し訳ないよ。まあできるだけ近いうちに歌いに来るさ」
 アルジはそう言うと、やはり軽い身のこなしで音機の肩に飛び乗った。指揮棒を背中から取り出して音機の頭を軽く小突くと、音機の前頭部の穴から見える小さな光がひとつ灯った。機械的に数回点灯すると全身の関節の隙間から蒸気を噴出し、やがてゆっくりと立ち上がる。
 ぎし、と一軋みすると、音機はまた機関車のように蒸気を吐き出し、二本のごつい足でゆっくりと歩き始める。
「アルジ、またね」
「……ばいばい」
 案外に大股で足早にその場を後にするアルジと音機に向けて二人が小さく手を振ると、アルジもまた指揮棒を大きく振って応えた。少し離れた場所で鳥たちと遊んでいたらしいアレフもアルジが去っていくことに気がつくと、全身を大きく動かして別れの合図をした。
 
 ♪
 
 あれは霧が少し濃い日だった。
 そういえばあなたは、いつもよりもしきりに私たちに別れを告げていたような気がする。
 
 ああ、あのときは。またすぐに歌を聞かせてもらえるものだと思っていたのに。
 次に会うときも、また同じように四人で一緒に遊べるものだと思っていたのに。
 思っていたのに。
 
 ♪
 
 ほんの数日後。
 アルジと音機、そしてアレフ、セム、黒髪の少女がいつもの場所に集まった。いつもの場所とは小高い丘の上の草原で、そこには指揮者が立つような台の形をした岩が一枚だけある。他にはただひたすら翠の草原が広がっているような場所だった。
「ねえねえアルジ、今日はどんな歌を聞かせてくれるの?」
「……んん」
「あ、指揮棒貸してよ! 今日こそソイツを動かしてやる!」
「……うん」
 アレフが大きな声を出してわめく中、アルジは音機の肩の上で呆けっぱなしになっていた。ただ空ろな目のままで、蒼い空にぽっかりと浮かんでいる汚い月を眺めていた。
 
「……どうしたの、アルジ」
 見かねた少女がアルジに声をかける。アルジははっとしたように少女のほうを向き、少々ばつの悪そうな顔で白い頭を掻いた。
「ああ、ごめんごめん。んんんちょっとねー、悩み事」
 相変わらず固まったままの音機の肩から飛び降り、飽き気味になっていたアレフを捕まえて指揮棒を貸してやった。アルジは柔らかい草の上に大の字になって寝転がり、深呼吸にも似た大きなため息をついた。
 アレフとセムが代わる代わる指揮棒で音機を小突いているのを横目に見ながら、少女はアルジの隣に腰を下ろした。アルジと同じように空を眺め、特に変わったことが無いことを確認すると、困惑した表情で視線を下げた。
「アルジ、なにか悩んでる? 私でよければ話、聞くよ」
「え」
 アルジは一瞬驚き、ゆっくりと体を上げた。心配そうな少女を見ると、慌てて少し沈んだ雰囲気の笑顔を作る。癖のように頭を掻きながら、吐き出すように声を出した。
「ああ、トリスは賢いね。それに優しい。私のことを気づいてくれる。素敵な人だよ」
 自嘲のような響きを含ませてアルジは呟いた。またぐったりと草原に寝そべり、遠く広がる空を見ている。
「そんな! 私だけじゃないよ。あの二人だって気づいてる。……アルジ、どうしたの? あなたの悩み、私たちには教えてよ。一人で抱え込まないで。いつも私たちを助けてくれるあなたを、私たちだって助けたいの!」
 少女――トリスは黒く長い髪を風になびかせ、勢いよく立ち上がった。アルジの視界を阻むように見下ろす。その深い空色の瞳は、なにか強い決意を秘めているようでさえあった。
「トリス……」
 アルジはトリスの様子を見て、ふっと小さく笑みを漏らした。空ろな目を一度閉じ、また開く。開いた瞳は輝きを取り戻していた。トリスをたじろがせるほどに強い意志を湛えていた。
 トリスは自然と一歩引いた。アルジは大きく伸びをしながら立ち上がり、突然トリスを抱きしめた。そして先日セムにしたように、柔らかい頬にキスをする。そしてぐっと肩を掴み、トリスの顔を自分の瞳の正面に据えた。
「あ、アルジ……?」
 突然いろいろなことをされて赤面しているトリスに向かい、アルジは高らかに宣言した。
 
「トリス。ありがとう。私は決めたよ! ……私、月に行く。父さんの意思を継いで、月の人を助けに行くよ」
 
 ♪
 
 そう、今思えば、これが。
 彼女が私たちに別れを告げた瞬間だった。
 迷いを吹っ切って輝きに満ちた彼女の瞳。その輝きは充分だった。彼女を助けると強く思っていた私。その私を夜よりも暗い奈落へ突き落とすには、それはもう充分すぎるほどに明るい光だった。
 
 ああ、どうして。どうして。
 
 ♪
 
「どうして! どうしてそんなことを言うの!?」
 突然。
 トリスは魔獣のような形相でアルジの胸倉を掴みあげた。背の低いアルジは地を失い、宙に浮く。その瞬間後にはか細い少女のものとは思えない力で、優しくなびいていた短い草むらに叩きつけられていた。
「……トリス」
 土と血で汚れた顔を拭う。歯を強く食いしばり拳を奮わせるトリスを見据え、アルジはひどく悲しい表情を見せた。数米離れた場所では、あまりに突然のことに声も出せない二人の少年が震えている。
「私たちを置いて行くの?」
 トリスが跪くアルジに詰め寄る。目は充血し、怒りに唾液を垂らしながら表情を歪ませていた。
「一人だけ抜け駆けするつもりなんだな! お前も私を捨てるんだな! 裏切り者め、私たちがあなた無しではいられないことぐらい、とっくにわかっているくせに!」
 ヒステリックに喚きながら、トリスは立ち上がりかけていたアルジに再度掴みかかった。獲物を捕らえる獣のように爪を立て、乱暴に押し倒す。
「行かせないぞ、絶対にお前を手放すものか! 半獣だから! 純血じゃないから! 醜いから! そんなくだらない理由で親に捨てられた私には、みんながいるここの他に帰る場所なんてないんだから!」
 黒く長い髪の下に隠れていた獣の顔が露になる。その肌は白く短い体毛で覆われ、狼のような太い爪がアルジのか細い腕を掴んでいた。アルジのジャケットが裂け、白いシャツに赤黒い血がにじむ。
 
「音機」
 
 アルジはまったくの――どこにも焦点を合わせていない瞳。完全な無表情で、異常に美しい声を響かせた。
「だめよ、音機。いい子にしていてね。これは私とトリスたちの問題なんだから」
 アルジが会話している対象を理解すると、トリスは驚いてその鉄の塊を睨み付けた。
 震える少年二人が盾にしているその人形は、明らかに自分を『見ていた』。『睨んでいた』。明らかな殺気さえ放っていた。もし自分の下にいる少女がよしと言えば、次の瞬間には自分が磨りつぶされるに違いなかった。
「いい子だから。だめよ。そう、静かにしていなさい。もう少しだから、ね」
 アルジが赤ん坊をあやすような声でなだめると、音機はそれに従うように目の光を消した。しかし依然として殺気は消えず、主の防衛命令を待っているようだった。
「あ、あ……」
 へなへなとトリスの力が緩む。途端にアルジはするすると腕を抜いて立ち上がった。体勢を崩したまま怯んでしまったトリスを掌で制す。
「トリス、聞いて。アレフも、セムも。私はどうしても月へ行かなければならないの。ずっとずっと機会を待っていた。今がその時なの。私は、行かなきゃならないの」
 終始静かな口調だった。強い決意が込められたその言葉が澄んだ空気に染み渡る。
「……どうして」
 震えた声が漏れる。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭おうともせずに、トリスはアルジを見上げていた。先刻までの怒りはもう感じられなかった。悲しみにあふれた顔は、いまや悲痛なまでに醜く歪んでしまっていた。
「私たちには、私には。あなたが必要なのに」
 赤く充血した目から涙が止め処なくあふれる。もはや立ち上がる気力すら失せたトリスの頭をやさしく撫でると、アルジはまたゆっくりと、まるで唄のように声を響かせた。
 
「ああ、ありがとう。私を必要としてくれて。そう、あなたたちには私が必要なんだよね。もちろん知っていたよ。きっと全部わかってた。私は卑怯かもしれない。あなたたちを置いていく裏切り者かもしれない。でも、私を必要としているのはあなたたちだけじゃない。そして、あなたたちには本当はもう、私は必要じゃないんだよ。もう大丈夫なんだよ。……本当は、わかっているんでしょう? トリス……」
 
 霧はいつの間にか晴れていた。
 小さな太陽が雲の隙間から顔を覗かせ、草むらの丘を暖かく照らしていた。その反対側には、遠く広がる青い空の一点にどす黒い鉄の塊が浮かんでいた。それは休むことなく汚れた煙を吐き出しながら、何かを誘うように紫色の手を拱いていた。
 月が顔を出した。冷たい風が四人を責める。
 
「ごめんね、トリス」
 アルジがトリスを抱擁する。
 嗚咽を漏らしながら抱き返す、白い獣人の少女。その額にもう一度口付けをすると、泣き声はまたいっそう大きくなった。
「あるじ……いかないで」
 力を込め、いっそ苦しそうにアルジを捕まえながら、トリスが草の絨毯に崩れる。アルジが胸に埋まった頭を撫で続けていると、ふと辺りが暗くなったことに気づく。黒髪から目を離し見上げてみると、そこにはあの鉄の人形が佇んでいた。
「音機……?」
 アルジが驚いていると、その鉄塊の大きな肩から、滑るように二つの人影が降りてくる。心配そうな顔をしたちびとのっぽの少年が、アルジと一緒に黒髪を撫でた。
 
「トリス、もういいよ。アルジを行かせてあげよう?」
 小さいほうの少年――アレフが、何かを堪えるように吐き出した。その言葉を聞き、トリスは絶望の顔をアレフに向ける。理解できないという風でアレフにしがみつく。
「そんな……アレフだってアルジが必要でしょう? 私たちにはこの人が、」
 そこまでトリスが言いかけると、大きな少年のセムがその言葉を止めた。高い位置から見下げるその顔は逆光で暗いが、小さな瞳からは涙が幾筋も零れていた。
「トリス……アルジは、行かなきゃいけないんだ。アルジには使命があるんだ。何にだって代えられない大事な仕事があるんだ。見送ってあげなきゃいけない。それはトリスだってわかっているはずだろう?」
 アレフの声も震えていた。借りていた指揮棒をアルジに差し出し、小さく頭を下げた。
「いままでありがとう、アルジ。いつかこういう日が来るとは思っていたんだ。でも、こんなに急だとは思っていなかった。僕たちは君になにもすることができないけれど……忘れないでほしい。この場所のことを。僕たちのことを。僕たちは待っているから。君をずっと、待っているから」
 
 また冷たい風が吹いた。
 音機にさえぎられ、四人を避けるように風が遠く流れる。
 
 トリスの手を離れたアルジはアレフから指揮棒を受け取ると、音機の頭を軽く小突いた。音機がゆっくりとした動きで頭を下げると、アルジがいつもの軽い身のこなしで冷たく冷えた肩に飛び乗った。
 いつもの。そして最後の。光景だった。
 
「ありがとう」
 
 ひとつの言葉が落ちる。
 二度と振り返ることなく一人と一体がその場を去ると、後には泣き崩れた黒髪の白狼と、小さな頭を下げたまま涙を流す少年と、棒立ちのまま歯を食いしばって嗚咽を堪える少年が残されていた。
 ただこの三人だけが残されていた。
 他には何も残らない。
 
 ♪
 
 この次の日に、月への船が出航しました。
 その船に乗っていたのは最低限の乗組員と、たった一組の乗客だけ。
 
 主と音機だけでした。
 
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