月の民の話
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――変わった娘が来た。
もう何年ぶりになるだろうか。わざわざこの月面ドームにやって来る人間など。
船の島から箱舟でやってきたというが、まあ実に野蛮な格好だ。ぼろぼろのジャケットに染みだらけのワンピース、頭はろくに手入れもしてなさそうに見える白髪。申し訳程度に胸元に見えるネクタイは、もはや逆に異様だ。顔つきから見て、歳は十代の中ごろといったところか。
我々に比べたら相当貧しい暮らしをしてきたように見える。その姿だけ見ればあまり近寄りたいとは思えなかっただろうが、しかし私は彼女の連れていたもうひとつ≠ノ興味を持った。
機械人形だ。
鋼鉄の身体は全身薄い赤錆で覆われていたが、しかしその中身の精巧さは私には一目で理解できた。見た目相当な超重量を支えている動力も相応に強力なはずだ。駆け巡る配線や骨組みが無骨に露出しているが、そのことはむしろこの人形の頑丈さを存分に示していた。
船の島では禁忌とされていた機械人形。その収集家として月で名を馳せた私が見る限り、その少女が連れてきた人形は相当な科学力の粋であった。そしてそれは、――私の収集欲を大いにそそらせてくれる一品であった。それを従え操っている少女にもまた少々の興味が沸いた。その程度だ。
「お邪魔します」
私は少女を家に招き入れた。
少女は宿を探しているようだったが、このドームはいわゆる上流レベルの貴族ばかりが集まっている。みずぼらしい姿をして無骨な巨兵を連れた少女はどうにも警戒されていたようだった。そこにかこつけて、私は少女と機械人形に一宿一飯の恩義を売りつけることにした。
「少々狭いかもしれませんが……そちらのソファでおくつろぎ下さい。ああ、いまお茶を淹れますね」
「狭いだなんて。大きなお家で羨ましいです。……音機はそこで立っていてね」
少女はソファに座る前に、音機と呼ばれた機械人形を奇妙な形の棒で小突いた。すると人形は目――だと思われる、たぶん――の光を落とし、静かにソファの後ろで固まってしまった。あの棒がスイッチかリモコンあたりの役目を果たしているのだろうか。見たところ、その棒は本当にただの『棒』だ。仕掛けがあるようには見えない。不思議な仕掛けだ。どんな技術が使われているのか、果たして見当もつかない。
私はひどく興奮していた。上手くすれば最大レベルのコレクションとして自分の家宝館に展示することができそうな一品。それが目の前に確かにいるのだ。私は熱い視線を人形から少女に逸らすことに必死になっていた。
少女をソファに座らせ、私は船の島にはない種類の茶を出した。隠し味を少し混ぜてやろうかとも思ったが、それは私の理性が止めてくれた。少女は茶が好きなようで、それを大変珍しがった。私が一口飲んだのを見ると早速ぐいぐいと飲みはじめ、結局数杯もお代わりをし、なんという名前の茶なのか、他のドームでも手に入れることができるかなどをたいそう興味ありげに聞いてきた。
「とても好きな味でした。淹れた方の腕も良いのだと思います」
「ありがとうございます。茶を淹れるのは私の趣味なのです。従者型の機械人形もいるのですが、これだけは自分でするのがやはり一番ですね」
温かい茶を飲むと少女は緊張を緩めてくれたようで、だいぶ多くの話を聞くことができた。
彼女の父親が形見に遺したものが傍で眠っている音機であるということや、音機の製造者がまさにその父親であったということ。父親は機械工学者でありながら音楽家でもあって、少女はその職業と力を受け継いでいるということ。音機は彼女を補佐するために造られたものであるということ。そして、少女が月に至るまでの経緯とその目的。
「お父上はご聡明な方だったようですね。これほどの人形の作成をたった一人で手がけ、そしてそれをこの世界のために遺していかれるとは」
「父は何よりも命を愛していた人でした。世界という最も大きな命が果てようとしているのに気づき、何かをせずにはいられなかったのでしょう。結局父は世界を救うことはできませんでしたが、しかし私がその夢を継ぎました。父の願いは私の願いでもあるのです」
少女の瞳は強い光を湛えていた。無邪気に夢を語る子供のようでもあり、義務感に押しつぶされかけている哀れな大人のようでもあった。
「そのためにはまずこの月から、というわけですか」
確かに月はこの数年で開発が進みすぎた。ドームを無差別かつ過度に建造してしまった影響で地下からの毒ガスが大量に噴出し、植物はドーム外では一切育たない環境になってしまった。当然酸素も供給されず、人間は強力なマスクが無いとドーム外での活動が非常に困難になる。また廃棄された機械人形の脳にウイルスが進入、凶暴化することで生まれた『兎』発生の問題も深刻化している。月は人類の第二の故郷とはなり得なかった。
月に住む人間にも、自分を含めてろくな者はいない。ここにいるのは一生を道楽に費やせる程度に金を持つ富豪と、生きるために人生を捨てて奴隷となる道を選んだ負け犬しかいない。あとはただ襤褸切れのように弱った干物のような人間が、『兎』の餌になるために道端に転がっている。それだけだ。
命と心を癒す『音楽』を奏でる彼女の力はたしかに今の世界、ひいてはこの月には必要な存在なのであろう。
「そうです。私は月を癒すために、あの土の船からここまで来ました。月から出た毒は確実に船の島の自然を蝕んでいます。まずはここから汚染を食い止める必要があります」
「しかし船の島はもちろん、この月でさえも広大です。また、月の毒は旅人の身体を一瞬で枯らせることでしょう。アルジさんのように若い方でもマスクが無ければドームの外では一日ともちません。世界を癒す前にご自身が朽ち果ててしまいますよ」
私がそう言うと、アルジと名乗った少女は席を立ち、また背に戻していた指揮棒で音機を小突いた。音機は瞳に明るい光を点し、少女を大きな肩に乗せた。
「何を?」
私の問いは届かなかった。アルジは指揮棒を構え、そっと軽やかに振りはじめた。
「一曲、お聞かせしましょう」
――それは旋律だった。
音機から風のように流れ出る音の糸。それをアルジの指揮棒が紡ぐ。
美しくも懐かしい旋律。それに合わせて透き通るような歌声が広いリビングに響いた。
世界の安寧と命の救済を願う詩が、私の全身に心地よく澄み渡る。心は落ち着きながらも、私はこの音楽の先をずっと求め続けていた。そういう感覚に襲われた。無くしたものをやっと見つけたときのようにすっきりとした心地であった。
「確かに、私一人では世界を救いきることはできないでしょう」
少女は歌うのを止め、しかしやはり透き通るように美しい声で私に語りかけてきた。音機は依然として音を枯らすことはなく、語る声はむしろそのままの歌のように聞こえもした。
その声はまるで私が考えていることのように、私の心に自然と滑り込んできた。
「しかし、私の子供がいます。またその子がいます。また次の子もいるでしょう。私の父がそうしたように、私はこの指揮棒と音機を次の世代に託します。世界が救われるまで私たちは音を奏で続けるでしょう。それが私たちの使命なのです」
最後の小節が音機の心臓から生まれ出た。少女は指揮棒の先でそれをそっと拾い上げ、空気に乗せて私の耳に運んでくれた。
「だから……この子はあなたにはあげられません」
小さな演奏会を終えてしまうと、少女はソファで眠ってしまった。鉄でできた機械人形が少女を抱えるように護っている。
私は呆然としていた。なにか後悔にも似た気持ちであった。見た目も年齢も自分よりもひと回りもふた周りも若い少女が、自分よりもずっと大きなものを背負い、また自分よりもずっと成熟した精神を持っていることを知った。
ひどくちっぽけな自分に気づいた。金と欲望にまみれた生活を送っていた自分が、目の前の貧しい少女よりもずっと情けなく思えてきた。
少女は私に欠けていた大切なものを埋めてくれた。
朝になり日が昇ると、少女は既にいなかった。
ただ世話になったという件の簡単な置手紙と、私にとってはほんの少しの金を残していった。ドーム中の情報を集めたが、少女はもうドーム内にすら残っていないようであった。
私には少女たちの奏でた唄と言葉だけが残っていた。
彼女は私の心を変えた。
手段を選ばぬ決心で――それほど凄まじかった収集癖が消えうせてしまった。あの小さな女の子と、ほんの一晩話をしただけで。たった一曲の調べを聴いただけで。
あの出会いの後。私は収集していた機械人形を全て寄付し、莫大に持っていた金で『兎』を回収・修正する事業を立ち上げた。正常に修復させた人形やパーツはドームの管理等に使われる機械人形として管理統括者に売却した。
また、汚染された空気を解毒できる特殊な装置を装備した修繕型機械人形の研究・開発に携わった。やがてドーム周辺の毒ガスは排除され、以前のように植物が芽吹き出す日も近いだろう。
私はやがて、風の噂で白い髪の少女の話を耳にするだろう。
その度に少女の言葉が思い起こされる。
「確かに、私一人では世界を救いきることはできないでしょう」
――私は、彼女の子になれただろうか。
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